2012/02/18

表と裏について

▽青年グレーゴル・ザムザは布地の販売員をしている。しかし、ある朝自室で目覚めると、自分が巨大な毒虫になってしまっていることに気が付く。


ある朝、グレーゴル・ザムザがなにか気がかりな夢から目をさますと、自分が寝床の中で一匹の巨大な虫に変っているのを発見した。彼は鎧のように堅い背を下にして、あおむけに横たわっていた。頭をすこし持ちあげると、アーチのようにふくらんだ褐色の腹が見える。(変身 カフカ / 新潮文庫)


▽あまりに有名な一節。






▽しかし、私たち日本人は自覚しているといえるだろうか、体内に潜む、無数の虫に。


日本人の身体の中には虫が住んでいるらしい。しかし、どんな虫なのか、誰も見た者はいない。正体不明なのだが、とにかく、体の一定の場所にじっとひそんでいて、何かの折に不意に動き出す。
体内の一定の場所と言ったが、そこがどこなのかもはっきりしていない。たぶん、お腹のあたりなのであろう。ふだんはそこにおとなしくしているのだが、いったん暴れだすと、もう手がつけられなくなる。そうなるとあらゆる策を使って封じ込めるか、思いきって「虫を殺す」以外にない。だが、殺してもすぐに生き返るのか、それとも、別の虫がとってかわるのか、虫はいつの間にか、ちゃんともとの所に収まっている。(29頁)


▽古来から日本人は「虫」の存在に気づいていた。
心理学者フロイトがリビドーと唱えた、無意識の層に潜むエネルギー。
それを「虫」と名付けたのだ。

▽相手の体内に潜むいけすかない「虫」の存在を察知すると、「虫」が合わない。
都合が悪くなり、己の中の「虫」が落ち着かなくなると、「虫」の居所が悪い、といった風に。


日本人の体内に棲む「虫」が、リビドーとちがうところは、その虫が鋭い直感力、本能的な勘を持っているという点である。それはまさに昆虫のごとき感覚で、その感覚により日本人はたちどころに相手の人物を見分ける。相手をチラと見ただけで、あるいは、ひと言ふた言かわしただけで、体内の虫が拒否反応を示すと、その人間は「虫が好かない」ということになる。(31頁)


▽虫の体液は忌み嫌われている。


「虫ず」というのは「虫酸」もしくは「虫唾」で、文字通り虫が吐く唾だ。(31頁)


▽虫は人格を弄ぶ。


ある場合には精神に変調をきたし、情緒が不安定になる。泣きだしたり、自信をなくしてしまったりする。だから、そういう人間を日本人は「泣き虫」といい、「弱虫」と呼ぶ。また、ひとつのことにとりつかれ、一途になり、パラノイア(偏執病)のような徴候を見せる。そこで日本人は、書物ばかりに夢中になる人間を「本の虫」、ひたすら芸に打ち込む人間を「芸の虫」などと呼ぶ。つまり、それはいずれも虫がそうさせていると考える。(32頁)


▽さらに、男女の境を行き来する。


男の中の「恋の虫」が、娘の中の「恋の虫」にとりついたというわけである。恋は分別を超えている。分別を超えたものはすべて虫のせいなのだ。(33頁)


▽イザナギノミコトは、黄泉の国で再開したイザナミノミコトの腐乱し、蛆の湧いた姿に思わず逃げ出し、現世に戻ると禊をして目を洗った。イザナギは妻の身体を這っていた虫たちを、妻の体内から湧いて出てきたものだと見誤ったのだろう。
古事記での一節は、体内に無数の虫は潜んでいるという観念を日本人の心の中に深く刻み込んだに違いない。

▽ところで、「風の谷のナウシカ」は、堤中納言物語の「虫愛づる姫君」をモチーフにしている。
ナウシカの王蟲や腐海への愛は、序盤で否定された。
作中、虫を操ることを生業にしている「虫遣い」達は軽蔑の対象である。


▽ファーブルの昆虫記は、死後に至るまで、その業績がフランスで理解されることはなかった。


▽全然関係ないけれどバイオハザード5でも、アフリカ人の人体に虫を注入されている。

▽虫という異形を、言葉から心身に刻みつけたのが、私たち日本人だ。




自分の心でありながら、自分の生命でありながら、自分の意思でどうにもならない精神や性の本能を「虫」のせいにしたのである。(35頁)


▽自分の心でありながら、どうにもならない心のことを「虫」と名付けた。

ヒンドゥー教の聖典、バガヴァッド・ギーターには、こう記されている。

心こそが自分の友であり
心こそが自分の敵である
自分の心に勝ったものにとって心は自分の友となる。
だが負けたものにとっては、心は自分の敵である。


「凝る」とは分散しているものが寄り集まってかたまることである。日本の神話によれば、日本の国残って引き揚げた時に矛先から滴った潮が凝って島になったという。だからこの島は「おのころしま」と呼ばれている。「おのころ」とは「自凝」、すなわち、おのずから凝った島という意味である。「氷」という語も、水が凝ったものというイメージから生まれた。「凝る」は「ここる」=「凝凝る」ともいう。魚の煮汁などを冷やして凝固したものを「煮ごこり」というのは、そこからきている。
水などのそのような状態の変化から、日本人は人間の心も凝ってかたまったもののように表象したらしい。人間の「たましい」は空気のようにふわふわと浮動しているのだが、それが次第に凝り固まって「こころ」が形作られると考えたのだろう。だから「思いを凝らす」という表現があるのだ。声明には緊張と弛緩とがある。熱力学の第二法則によれば、熱は必ず拡散してゆき、しまいには均質の、つまり温度差のない状態へと到達する、その逆はけっしてありえない、それをエントロピーというが、生命というのはそのようなエントロピーに逆らって、いわば熱を凝らせるエネルギーといってよい。換言すれば、生きるとは、熱力学の第二法則に反抗することである。それが生の緊張である。
だとすれば、日本語の「こころ」とは、まことに巧みに生のエネルギーを言い当てていることになろう。古代の日本人は直感的に生命の実相を見抜き、それを「こころ」という言葉で表現したといっても良い。「こころ」とは、なんと含蓄のある言葉であろうか。(82頁)


うらという大和言葉は、おもてに対する、内側を意味するが、同時に「こころ」のことでもあった。それは「うら悲しい」「うら淋しい」という形で今に残っている。「うら悲しい」とは、心悲しいの意であり、「うら淋しい」とは、心淋しいということである。また、「うらやましい」は「心が病む」こと、「恨み」とは相手の心をじっと見つめる、つまり、相手のやり口に不満を抱きながら、相手の心を伺っていること、「うらぶれる」とは、心があぶれるの意とある。(岩波版 古語辞典)
「うらなう」という語も、うら(心)に由来するのではなかろうか。つまり、隠れた神の心を推測することが占いなのである。そもそも、うらとは「見えないもの」「かくれているもの」の義であった。したがって、うらとは「内部」であり、「奥」であり、「下」であり、「反対側」を意味した。おもて=面(顔)
に対して、心は見えない。だからうらなのである。入り江を「浦」というのもこの原義からきている。外洋はいわば海のおもてだが、内海、入江、湾は外洋から見えないかくれた海である。だから「浦」というのだ。(129頁)




▽森本哲郎は哲学科出身、題材は日本語でも、その「うら」には「うら」があった。



むし、こころ、うら

隠れているもの、見えざるものに対しては、時代や国を問わず人は畏怖や不安を抱いてきた。

しかし、もともと隠れていて、見えないものなのだからこそ、自分自身の心が聴こえないことや、相手の裏が見えないことに焦って慎重を欠いてはいけないのかもしれない。
少し毛色は違ったとしても、我々の知る、あの青年のように「変身」してしまってからでは、何もかも手遅れなのだから。


日本語 表と裏 森本哲郎(新潮社)