2012/11/13

女子学生と渡辺京二について



「本に学ぶは3流、人に学ぶは2流、自然に学ぶは1流」と何処かで聞いた覚えがある。
本を読んで、ふむふむ頷いて3歩歩いて、コロッと忘れている僕は、さしずめ4流といったところだろうか。



僕には先生がいる。
いや、正確にはあまり会ったことがないから先生であるかどうか、わからない。
どういう関係かと言うと、熱心に指示もされないし、熱心な師事もしていないという関係だ。
とにかく、先生と呼んだり、呼ばなかったり、まぁ、そんな人がいるのだが。
矢張り「人に学ぶは2流」ってのも有耶無耶になっていて、僕が4流であることに変わりはない。


ところで「どうやって本を選んでいるのか」と聞かれることがある。
僕の部屋にある本は、大抵の場合、鶴の一声で決まっている。
前述の先生が「川口くん、このへん読んでみたら」と、やんわり仰るので、やんわり読む、やんわり忘れるから「読みましたよーいやーおもしろかった/むずかしかったですー」やんわりコメントをする。


時に、先生に紹介された本を、すぐには読まないことがある。
しかし後になって思い出して、読まなかった本を求めてみると「なんでまたすぐに読まなかったんだ!」と吃驚仰天するやら茫然自失とするやら業腹煮やすやらで忙しい。
だから本については、いつ頃からか、手に取った時が絶妙のタイミングなのだ、と信じて疑わないことに決めた。





この「女子学生、渡辺京二に会いにいく」(亜紀書房)も、先生に紹介された本だ。
おそらく半年以上前のことだったと思う。



津田塾大学の学生が渡辺京二を囲んで、卒業論文についての座談会、のようなものを記録がされている。
「子育て」を卒論のテーマに選んだ女学生に、渡辺京二はこう答える。

結局〔子育ては(引用者註)〕は、今の人間が自分の生涯と言うもの、あるいは自分の一生をどのようなものとして納得していくのかという問題に関わってきますね、問題がずっと広がってきますね。(p38)
自分の持っている才能なりを発揮して、非常に個性的な一生を生きようと思っている人にとっては、子どもはだいたい邪魔になるんです。(p38-39)

夫婦は合わせ物だが、親子は合わせ物ではない。男性にも女性にも、子どもに対する潜在的な愛情や母性が存在する。しかし愛情や母性が発現するには必要な条件と環境が整えられていなくてはならない。

現代は、子育ての出来る環境が、整えられていないように、母性が発現するために必要な条件と環境も、整えられていないのだ。

いわば、現代というのはすべての人間が表現をしなくちゃ納得出来ないという時代になってきているんでね、そのむずかしさでしょうね。(p39)
私にはしたいことがある、自分の可能性をもっと発揮したい、あるいはキャリアウーマンの生涯をたどりたい、そういう自己実現の仕方について非常に思い違いがあるのではないか。そういう考えを助長するような社会の風潮がある訳でしょう。(p44)
たとえば女性も子育てをしてせっかくのキャリアを途中で辞めたくないと言う。辞めんでいいじゃないですか。でも僕は役所に入ったら、絶対出世したくはないですよ。出世したって何がいいのか。自分の部下が増えるだけのことでしょう。自分の責任が増えるだけのことでしょう。給料さえもらえばいいんで、役職がついたって、そこでの給料の差がなんぼありますか。たいした差はありゃしませんよ。責任の少ない楽なところにいて、そして自分の好きなやりたいことをやるのがいいです。ところが今は役所にいたら、上の方にどんどんキャリアを積んであがっていかなきゃいけないなどと言う。(p44)


ところで、僕は「バリバリ」と言う言葉を、女性から何度も聞かされている。


象徴的に覚えているうちの1度目は、僕が女性を取っ替え引っ替えして泣かしていた頃。
当時、1番長く付き合っていた人が目を輝かせながら言った。
「実は、将来バリバリ働きたいと思ってるんだ。カッコいいキャリアウーマンみたいな。」と。
彼女は、どちらかと言うとおっとりとしている子で、生存競争に巻き込まれると真っ先に捕食される草食動物のような子だった。(だから僕なんかに捕sh)


2度目は、僕が未だ真面目な就活生だった頃。
当時、知り合った沢山の女の子が言っていた。
「私はバリバリ働きたいと思ってます」と。
彼女達の多くは、大企業志向・海外志向が強く、とにかく大きな仕事がしたいと言っていた。まるでスイッチが入って感情的になったときの自分の父親と話をしているようでクラッとしつつも、「どうして?」と聞く。
すると彼女達は「女だからってナメられたくない」「出来るってことを認められたい」「チャンスがある時代だから」と十人十色ならぬ、十人とも大体同じ色をしていた。
彼女達が、オフィシャルな場で「バリバリ」と言っていないことを願う。


3度目は、僕が労働に明け暮れていた今年の夏。
「いまはバリバリ働けていて、とっても充実してるけど、時々不安になる」と。
彼女は学生時代から、やりたいことがハッキリしていたそうだ。


彼女達は、なぜ「バリバリ」に憧れ、求め、果てには焦慮するのだろうか。
バリバリ働く(きたい)って一体なんなのだろう。



渡辺京二は、自己実現という欺瞞を見抜く。
自己実現という言葉について、僕が非常に不信感を持つのは最初から自己と言うのは実現されているんだよ、ということもありますが、もう一つは、自己実現というのは、なんのことはない、出世しなさい、と言っているからですね。(p237)
たとえば国際舞台に出て行く人間になりなさい、 とかいうことなんです。アタッシュケースを持って飛行機から飛行機に乗り継いで、スケジュール表にはびっしりと仕事が詰まっているというのが、これが人間としての生き甲斐だというわけなんです。(p237)

「自己実現にしなきゃ」と焦る必要はない。
なぜなら、自己は、既に実現されているからだ。

顔一つとってみても、似た人間はいるけど、まったく同じようなクローン人間はいやしない。性質もそう。似たような性質の人間はいる。だけど、全く同じと言う人はいない。全部違う。だいたい人類誕生以来どれだけの人間が生まれてきたと思う? まったく同じ人間が1人もいなかったと言うのは、これはすごい事実ですね。それが個性ですね。個というもの、自分というものですね。(p234)  
 実は人間はオギャアと生まれたときに門出に立っている訳ね。(p218)

岡本太郎も瀬戸内寂聴も、人間は生まれたときから孤独だ、と言っていたような。
とにかく、生まれたときから、孤独な上に、自己は実現しているらしい。

ところで「バリバリ働きたい」と言う人は、口を揃えて「人のために役に立ちたい」と言う。
これは学校の先生たちが「社会の役に立ちなさい」と教えるからだ。

社会のために役に立ちなさいなんて、いらんことです。社会のためになんか役立たんでよろしゅうございます。だいたいこの人間の歴史に、いろんな災いをもたらしたやつは、社会に役立ってやろうと思ったやつが引き起こしてきた訳でございます(p228)

就職難で就職が決まらない青年は「自分は社会から必要とされていない人間だ」と悲観する。これは自死を予感させる発言である。
しかしながら、就職できないのは経済の問題であり、社会から必要とされないこととは別箇の問題である。
何よりも、必要とされていない、そのことをどうして自分で決められるというのか。

そもそも自己実現なんて言い出した人たちは、とくに女性を念頭に置いて、いままで社会的に抑圧されてきた人間を解放したい、そういうところから自己実現ということを言っているんでしょう。(p244)

自己実現は、過酷な要求だ。自己を実現できない80%以上の人間は 「お前はダメなやつだ」というレッテルを貼られることになるからだ。
自己実現は知識人やエリートのバイアスのかかった、非常に過酷な要求だ。
特別な才能を持つ人間を基準において自己実現をしようとすると、誰もがピアニストにならなければならない、誰もが村上春樹にならなければならない。

一億人全員がピアニストになって、誰がコンサートに足を運ぶのか。
一億人全員が村上春樹になって、誰が本を購入するのか。(僕は村上春樹が何人いようと本は購入はしないけどね)


渡辺京二に会いにいった女子学生が聞いたこと。
それは、自己は実現しており、平凡でいい。ということ。

だから学生に向けて、皮肉にも渡辺京二は、こう伝えたのだ。

 無名に埋没しなさい。






…といっても、冒頭に書いた通り、僕4流だから、要するに平凡(平凡以下?)だから、無縁な話でしたけど。