「チッソってどなたさんですか」と尋ねても、決して「私がチッソです」と言う人はいないし、国を訪ねて行っても「私が国です」という人はいないわけです。(40頁)
システムは 誰か を 幸せに しない。
先日は、経営哲学者のアインバールハイト先生とお会いした際に
「社会と闘争することをやめた人物を、先生はご存知ですか」
とお尋ねしたところ
「今のところ1人しか思い当たりません、その人のことは本を読んで知りました」
とお答えを頂きました。
そこで紹介された本を読んでみました。
『チッソは私であった』緒方正人(葦書房)
『チッソとは私であった』
このタイトル、一見すると「私」はチッソの関係者なのだろうか? とお思いになるのではないでしょうか。
その真逆です。
☆
なぜ「私」はチッソなのか、そのことは次のように説明される。
それまでの、加害者たちの責任を問う水俣病から自らの「人間の責任」が問われる水俣病への どんでん返しが起きた。そのとき初めて、「私もまたもう一人のチッソであった」ことを自らに認めたのである。それは同時に、水俣病の怨念から 解き放たれた瞬間でもあった。(8頁)
これだけでは「私もまたもう一人のチッソであった」と聞いても、やや分かりにくいだろう。緒方正人とは如何なる人物なのか。
- 1953年—水俣病患者として認定される方々が発症し始めた年—に漁村の網元の末っ子として生まれた。兄弟が20人、父親との年の差は51。父親とは祖父と孫のような関係で、父親から非常にかわいがられていた。
- 物心がついた時に目の前の海で魚の群れが死んで浮いているのを目の当たりにする、その後に猫が狂って死ぬ、小学生にあがる前に網元だった父親も狂って死ぬ。
- 一時家出をし右翼系の活動に関わるが、地元へ帰り漁師として生活を開始。
- 以降、水俣病患者の未認定運動に身を投じる。
- しかし、1985年、一転して病人としての認定補償を取り下げ、生活の基本を漁民に戻す。
- 現在でも、ご自身には手足の痺れや頭痛が残っている。
このように加害者側のチッソとは真逆の立場におかれた、言わば被害者側の人間だった。単なる被害者に留まらず、訴訟や運動の中心人物ですらあった。なぜ、そのような人物が、自ら運動から退き、補償を取り下げ、「チッソとは私であった」と言うに至ったのだろうか。
私は小さいときから親父をチッソに殺されたとずいぶん深く恨んでいました。(39頁)
いつか、自分が大きくなったら仇を討とうとずっと思ってきました。小学校の高学年になり、中学生になり、だんだん、だんだん、チッソを恨む気持ちが強くなっていくなかで、二十歳のときに水俣病の認定申請をしている患者達の運動に参加した訳です。(39頁)
子どものうちに親を殺された経験を持つ、その恨みは計り知れない。なおかつ、工場がなければ怒らなかった殺人だ。チッソの工場をダイナマイトで爆破してやろうと考えたこともあると言う。恨み、憎しみ、苦悩、様々な感情が渦巻く中、患者達の運動に参加してゆく。
ますます「チッソとは私であった」という謎が深まる。
言葉にすればたったの三文字の水俣病に、人は恐れおののき、逃げ隠れし、狂わされて引き裂かれ、底知れぬ深い人間苦を味わうことになっ た。そこには、加害者と被害者のみならず、「人間とその社会総体の本質があますところなく暴露された」と考えている。つまり「人間とは何か」という存在の 根本、その意味を問いとして突きつけてきたのである。(8頁)
人間とは何か?
ならば、チッソとは何か?
私自身、その問いに打ちのめされて85年に狂ったのである。それは、「責任主体としての人間が、チッソにも政治、行政、社会のどこにもない」ということであった。そこにあったのは、システムとしてのチッソ、政治行政、社会にすぎなかった。(8頁)
システムとしてのチッソ、システムとしての政治、システムとしての行政、システムとしての社会には、責任主体の人間がいない。一方で病人はそうはいかない。
すでに成人していた兄や姉と違って、私は幼児期に、あまりにも異様な親父の姿を見てしまって受け止めようがなくて、チッソという会社を見たこともなく、そして金の値打ちもほとんど知らない。そこから自分の水俣病が始まっていく。ですから、私自身の「固有の水俣病」という捉え方があるように思います。これは決して私だけではなくて、それぞれの患者、被害者に「固有の水俣病」があると思います。(16頁)
一人ひとり固有の人間苦があった。水俣病事件史は確かに大きな流れとしては一つですけれども、私は「固有の水俣病」がそれぞれの人生に深く食い込んでいると感じています。 (17頁)
一人ひとり固有の"苦しみ"がある。マクロなシステムはそれを画一化し一般化し、ミクロな苦しみをマクロな苦しみの一つとして変換する。このことは、ますます「この私」を"苦しめ"る契機ともなり得るだろう。
果たして、和解とは、補償とは、個別対応とは如何なるものか、それは「一般化された個人」への対応に他ならない、とんでもない話だ。社長や会社役員は表舞台から消え、末端社員や役所の窓口が対応先になる。納得がいかないのも当然だ、そこに「人間」がいないからだ。求められていたのは必要とされていたのは、単独な「この私」への対応ではないだろうか。
そこにあったのは、システムとしてのチッソ、政治行政、社会にすぎなかった。それは更に転じて、「私という存在の理由、絶対的根拠のなさ」を暴露したのである。立場を入れ替えてみれば、私もまた欲望の価値構造の中で同じことをしたのではないか、というかつてない逆転の戦慄に、私は奈落の底に突き落とされるような衝撃を覚え狂った。(8頁)
なぜ立場が逆転するのか、なぜ被害者である「私」がチッソなのか、理解するのは容易ではない。そこに至る為には「立場を入れ替える」必要がある。いや、そんな生半可なことではないだろう、そこに至る為には立場を入れ替えた上で、更に「狂う」必要があった。
儲かって儲かって仕方がない時代に、自分がチッソの一労働者あるいは幹部であったとしたらと考えてみると、同じことをしなかったとは言い切れない。そうした自分を初めて突きつけられた訳です。(43頁)
今まで被害者、患者、家族というところからしか見ていないわけですね。立場を逆転して、自分が加害者側にいたらどうしただろうかと考えることは今までなかったことでした。(43頁)
責任を追及している間は恐ろしくないんですね。攻めるだけだから。ところが、逆転を想像するだけで、立場がぐらぐらとするわけです。それまでの前提が崩れるわけですから。(44頁)
絶対同じことをしていないと言う根拠がない。そこに晒されると狂いに狂って、これはもう一人の自分をそこに見るわけですね。ですから そういう意味では十年前から、チッソというのはもう一人の自分だったと思っているわけです。(44頁)
これまで自分がもっていたものががらがらと崩れていき、自分が分からなくなっていたようです。(47頁)
「狂う」つまり、あらゆる常識的な言説の自明性を疑い、すべて経験的に前提としてきた観念を括弧にいれ、そのような臆見を成り立たせる条件を根底から吟味することである。
これは最早、相手の気持ちを考える、客観的に物事を判断する、といった次元の話ではない。それは文字通り、自分がもっていたものががらがらと崩れていく、のだ。
チッソの責任を追及している自分とは何者なのか、疑いに疑って狂いに狂うこと、加害者、被害者という事件の立場を超えていくこと、それまでの共同体から越境すること、あらゆる常識的な言説の自明性から解き放たれること、そこで見られる「自分」は最早「自分」ではいられない。
「狂う」こと、それを坂口安吾は「堕落」と呼び、マルクスは「命がけの跳躍」と呼び、イエスは「汝の敵をも愛せ」と隣人愛を説き、ソクラテスは…、釈迦は…。
「近代化」とか「豊かさ」を求めたこの社会は私たち自身である、狂いながら身悶えしながら、可能世界に生きる自分を認め、事実と向き合い、狂った末に、遂にかく語られるのだった。
一体この自分とは何者か。どこから来てどこへゆくのか、である。それまでの、加害者たちの責任を問う水俣病から自らの「人間の責任」が問われる水俣病への どんでん返しが起きた。そのとき初めて、「私もまたもう一人のチッソであった」ことを自らに認めたのである。それは同時に、水俣病の怨念から 解き放たれた瞬間でもあった。(8頁)
闘争は闘争を生み、闘争は闘争を強化する。
先日、経営哲学者アインバールハイト先生は仰った。
「原子力発電反対運動も、結局は原子力発電推進派を強めちゃうことになっちゃんですよね」
チッソの責任とは、チッソの社長の責任とは、チッソの役員の責任とは、熊本県の責任とは、それは、豊かさを望んだ、近代化を望んだ、人間の責任でもあった。
どんでん返しがおき、狂い、「私もまたもう一人のチッソであった」と自らに認めた時、
この自分とは何者なのか、という根本的かつ実践的な問いが生まれる。ゴーギャンよろしくわれわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか。
水俣病事件史の中で亡くなった人、あるいは魚、猫、鳥、傷つき倒れ殺されていったそういう命の問いかけていることは、亡くなった人の救いということだけではなくて、実は生きている私たちにかけられた願いだと思うわけです。そして水俣病事件が私に問いかけていることは、決して制度化されない魂のゆくえ、そこにどう自らが歩みにいくのかということだろうと思っています。(70頁)
「和解」「補償金」というシステムの中では、亡くなったものの魂も、生きている者の魂も、誰の魂も救済されないだろう。
今までなかなか言えなかったというか、よっぽどの人にしか言えなかったんですが、チッソの人たちをいとおしくさえ思う、罪とか責任というものを共に負いたい、あんたたちばっかり責めんばい。私も背負うという気持ちになったんです。で、「焼酎どん飲もい」、ということなんです。
そう思えるようになってからが自分では非常に楽になりました。それ以前はやっぱり、チッソといっても結局人を恨んでたんですから。人を恨み憎んでいる時はよか顔ばしとらんですね。(73頁)
恨みの境界線上に立ち、現在でも恨んでいるかもしれない、それは紙一重だった。
しかし、生きるという意味を考えた時に、「私」はチッソだった、「私」と同様にチッソもいとおしくなる、さあ焼酎でも振る舞って、一緒に責任を背負おう…。
(※しかし、川口はあらゆる飲みニケーションと呼ばれる全てが苦手なので焼酎云々の話はわからない。至極残念。ウーロン茶でよろしければ朝まで付き合います。)
私は、この現代社会を象徴する縮図として水俣病事件をその中心軸に位置づけながらも、時代の本質を一生懸命に見据えようとしてきた。そこで見たものは、今やすべての命が根付けされた商品となり、市場に組み込まれたシステム社会であった。(9頁)
全ての命が根付けされた商品、時給とはとんでもないシステムだ、つまりこれはマルクスの疎外論に基づく人間疎外 (Entfremdung)、このことを語りはじめるのであれば人間の物象化(Versachlichung)・・・・・・なんていっていると、これまた男くさ〜い哲学討議が始まりそうだ。
かといって魂がどうした・・・・・ ・なんて書きはじめると、「お、ついに宗教に走ったのか」なんて言われかねないし、このへんでやーめよ。
かといって魂がどうした・・・・・ ・なんて書きはじめると、「お、ついに宗教に走ったのか」なんて言われかねないし、このへんでやーめよ。
☆
ただね、最後にこれだけ書いとこうかな。
ぼくは、アインバールハイト先生から緒方正人を、闘争から逃れた人物として紹介して頂いた。しかしながら、ぼくは闘争から逃れた人物として捉えることが出来なかった。
真の闘争、真の蜂起とは、このようなことを指すのではないか。
バカな、こんなもの、ただの思考停止に過ぎない。と言うのは、あさましい評価だ。
苦悩を味わい尽くした上でも尚、"システム"を「許した」 姿勢を剣呑にも見過ごしている。(「今、チッソに対してほとんど恨みをもっていません。」70頁)
ところで2011年3月11日以降、ぼく(たち)は何をしただろうか。ぼく(たち)は蜂起も、「蜂起」もしていないのではないか。
津波で流された、或は流されなかった魂のゆくえは、システムに組み込まれていくのでは余りにも虚しすぎる。
「チッソとは私であった」
チッソ:某電力会社:私≒熊本県:某国家:私
として読みながら、その類似性に辟易しつつ、水銀で汚れた海岸を埋め立てること/発電に使い終わった放射性廃棄物を埋めようとすることの紙一重すらもない差に頭痛さえ催し、嘆息が耐えない日々が続いてゆく・・・
と、ウンザリしてばかりもいられない。
今回の選挙はどうしようか。
クリスマスを待たずして、服を着替えて「選挙にいこうぜ」と誰かをデートに誘おうか。
選挙というシステムも、やはり誰かを幸せにしないだろう。
それでも 顔のない街の中で 、見知らぬ人を見知りたいものだ。
緒方正人氏インタビュー:http://www.southwave.co.jp/swave/6_env/ogata/ogata02.htm