2013/07/23
ドン・キホーテについて
THE BLUE HEARTSが解散したのは1995年、その同年、結成されたTHE HIGH-LOWSの活動が休止したのは2006年。更にその同年、ザ・クロマニョンズ結成と同時に甲本ヒロトがソロデビューを果たす。
余談だが、このデビューシングルにおいて彼はギターのみならずベースやドラムスほぼ全てのパートを1人で担当している。
このCDの2曲目として収録されている「天国うまれ」は三谷幸喜監督「THE 有頂天ホテル」(2006)に提供され、作中ではミュージシャン役のSMAP香取慎吾また大物演歌歌手役の俳優西田敏行によって歌われる。
「天国うまれ」
作詞・作曲:甲本ヒロト
幻はとっとと
消えてなくなれ
夢ならこのまま
ずっと覚めるな
ドン・キホーテ サンチョ・パンサ ロシナンテ & 俺
ふるさと遠く 天国生まれ
叶わない恋もある
あきらめてしまえ
叶わない夢はない
あきらめるな
ドン・キホーテ、サンチョ・パンサ ロシナンテ & 俺
ふるさと遠く 天国生まれ
チッタッタ 3拍子で
ブラリブラリ行こう
待たせておきな
明日なんか
ドン・キホーテ、サンチョ・パンサ ロシナンテ & 俺
ふるさと遠く 天国生まれ
へんな名前をつけて
呼び合ってみよう
笑えて泣ける
へんな名前
ドン・キホーテ、サンチョ・パンサ ロシナンテ & 俺
ふるさと遠く 天国生まれ
私見だが、この曲の中で歌われている「ドン・キホーテ」とは、いまや都内であればほぼ全域において目にすることのできる総合ディスカウントストアのことを歌っているのではなく、スペインの作家ミゲル・セルバンテス(1547-1616)によって書かれ前篇は1605年、後篇は1615年に出版された小説を指してうたっているのであろう。
ドン・キホーテという名前、そして男が風車に突撃する話は、既に多くの方がご存知のことかと思われる(註:先日、このことを存じない大学4年生[贔屓目に言っても偏差値65の私立大学に通う文系の学生]に邂逅したため「あまりにも有名〜」「こんなことは子どもさえ知っている〜」などの誇張表現は自粛した。)が、この作品によって西洋近代文学の祖と喧伝されていることは、たとい質の高い高等教育や専門教育を受けている方であっても然う然うピンと来ない話題なのかもしれない。
と、これだけの皮肉を飛ばしておきながら、「ドン・キホーテ」とセルバンテスが西洋または近代にとっていかに重要であったかを十分に論じるためだけの批評する舌ないし腕を持ち合わせないため、ここでは主に作品の概要と感想を、気の向くままに、書きたいと思う。
既知に富んだ郷士アロンソ・キハーノは、絵空事がふんだんに描かれている騎士道小説の読み過ぎによって錯乱状態に陥り、自分自身の事を騎士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャだと思い込んでしまう。
ドン(Don)はかなり身分の高い人にしか付けられない敬称であり、キホーテ(Quijote)にも少なからぬ軽蔑の意味が込められ、デ・ラ・マンチャ(de la Mancha)とは荒涼とした地方の名で、またマンチャ(Mancha)とは「不名誉」という意味でもある、つまり、相当変な名前なのだ。
鎧で身を包み武装したドン・キホーテは遍歴の騎士となり、愛馬ロシナンテにまたがって旅に出ようとする。ついでに近所に住む善良な農夫サンチョ・パンサを従士として伴わんとした。ちなみにサンチョ・パンサの「パンサ(Panza)」は「太鼓腹」という意味だ。
無論、この時代に遍歴の騎士が存在するはずがない。(況ヤいつの時代ヲヤ)
当時、現実のスペインでは、無敵艦隊がアルマダの海戦でイギリスに破られている、沈まなかったはずの太陽が呆気なく沈んでいった時代にドン・キホーテは旅へと出発したのだ。
さて、ロシナンテという名前も先にあげた「天国うまれ」に登場するからには着目しておかなければならない
(引用者註:ドン・キホーテは)遍歴の騎士の乗り物となる前にはどんな馬であったか、それが現在はいかなる状態にあるかをはっきり示すような名前をつけてやろうと腐心した。主人の身分が変われば馬もまたその名を変え、主人とともに遂行することになる新たな生活や新たな使命にふさわしい、どこか由緒ありげで調子の高い名前で呼ばれるのが、しごく理にかなったことのように思われたからである。かくして記憶をたどり、想像をはたらかせて、数多くの名前をこしらえたり、消したり、削ったり、付け足したり、こわしたり、またでっちあげたりしたあげく、ついにロシナンテと呼ぶことにした。彼に見る所では、崇高にして響きの高いこの名はまた、この馬が以前(アンテス)は駄馬(ロシン)であったことを示すと同時に、現在は世にありとある駄馬(ロシン)の最高位にある逸物(アンテス)であることをも表しているのであった。(「ドン・キホーテ前篇(一)」牛島信明訳 p51)
要するにロシナンテも主人や従士にふさわしい相当に変な名前なのであった。
たしかに前編においては、かの有名な風車を巨人だと勘違いする冒険や、羊の大群を戦場だと勘違いする冒険が挟み込まれているが、それは御馳走の一部であることはこの書物を1度でも手に取った読者にとってみれば火を見るよりも明らかなことだ。「ドン・キホーテ」において最も魅力的なのは、奇抜な冒険の数々よりも総勢650名も及ぶ登場人物達、何より主人と従士2名の機知に富んだ対話だ。
冒険という『幻』は、解決されるごとに掻き消えてゆく、また後篇にもなるとドン・キホーテは本物の冒険に触れるにつれ、徐々に正気を取り戻し『夢』さえもが消えてゆく、しかし数々の機知・金言・至言・正鵠を射た文学批評・時代風刺・しつこい諺などが繰り広げられる対話は、しばしの間は現実を忘却の彼方に追いやってくれる、古代ギリシャ以来の対話篇は読者にとっては終わらないいつでも何度でも繰り返され得る夢のような時間を与えてくれるのである。
物語はシデ・ハメーテ・ベネンメーリという歴史家の記述をセルバンテスが編集する形をとり、読者は重層に展開される虚構の世界を行き来しなければならない。
歴史書が失われている話が挿入され、全く本筋には関係のない作中で発見された小説が挿入され、従来ならば「本筋があってこその登場人物」であるはずが、特にサンチョ・パンサにおいては作中を自由に動き話を従来通りに進ませてくれない。これが、西洋における近代小説たる所以のひとつだとか、左様なら然もありなん。
ところでドン・キホーテは、およそ総ての騎士道小説がそうであったように、ドゥルーネシア・デル・トボーソという見目麗しい可憐な姫(という妄想であり、実際はアルドレンサ・ロレンソという百姓娘、後篇ではニンニク臭のキツい通りがかった百姓娘)に恋をしているのだが、ドゥルーネシア・デル・トボーソは名前だけで作中に現れる事はない。この『叶わない恋』のためにサンチョ・パンサは3300回も自分の身体に鞭打つことになる。このように多くは主人のために様々な受難受けながらも、『叶わない夢』のはずだった島の領主にもなってしまう無学でおしゃべりなサンチョ・パンサは、後世に現実主義者と論われ、セルバンテスと同年同日に死んだシェイクスピアの道化と比較され論われ、風刺だと分析され論われ、キリストやそのほか有象無象のメタファーだと論われ・・・・・・「ドン・キホーテは後世によって書かれた」と言われる所以は、愛読者数たちによって繰り返し親しまれ、特にオルテガはもちろんツルゲーネフやトマス・マンなど数々の批評家や文学者によって繰り返し論じられてきたからなのだろう。
変な名前のドン・キホーテ、サンチョ・パンサ、ロシナンテ、そして読者は、ふるさと遠くはなれ、幻として掻き消える冒険と叶わない恋の物語がら、叶わない夢と覚めない夢を見る。果たして、狂っているのは俺かドン・キホーテか。そしてドン・キホーテが狂気を失い、読者を何度も笑いの渦へと誘い込んだ愚かな友人サンチョ・パンサが泣き崩れるとき、機知に富んだ郷士は天国へと還り、物語は静かに幕を閉じた。待たせておきな明日(近代)なんか。